わが沖縄県民よ 忘恩の民になるのか「産経新聞」平成9年(1997年)4月21日付「問題提起」
評論家 恵隆之介
米空軍嘉手納弾薬庫構内には、明治三十八年建立の「植樟(しょくしょう)之碑」が米軍によって丁重に管理されている。
ここには戦前、久得(くどく)といわれる村落があった。当時、沖縄は大干ばつに見まわれた。明治天皇はこの窮状を聞かれ、さっそく侍従を沖縄に派遣された。現地を視察した侍従の発案により、涵養林として樟(くすのき)がこの一帯に植樹された。
琉球王朝の圧政が、未だ忘れられない沖縄農民にとって、天皇の温情は強い感動を呼んだ。そして、村民の発議によって、この碑が建てられたのである。
琉球王朝は農民の土地所有を一切認めず、村落ごとに課税し、しかも一定年限をもって耕作地を村落ごとに交代させてた。その結果、農民の生産意欲はことごとく減退し、農家の疲弊は極度に達していたという。
昭和四十七年の本土復帰を、県民は長い間、真剣に熱望していた。わが国の統治権から分離されることが、いかに不安なものかを身をもって体験していたからである。
三七年四月、米軍統治下で日の丸を掲揚できなかった沖縄の漁船が琉球旗を掲げて操業中、国籍不明船としてインドネシア海軍機の銃撃を受け四名の死者が出た。また、二十六年ごろから南米への移民が再開されたが、現地、特にボリビアでは沖縄出身者が災害や風土病によって辛酸をなめていた。ところが、わが国が主権を回復した後も沖縄出身者は復帰までの間、政府の保護が受けられなかった。
そうした中で、復帰前、甲子園に出場した地元高校生が甲子園の土、というよりも祖国の土を袋に入れて持ち帰るという光景は全国民の胸を打った。「沖縄戦で本土の防波堤となり、しかも戦後は米軍政下にある沖縄県民に申し訳ない」という共通の思いがあったからだ。
ところが本土復帰が実現するや、沖縄県民は反国家的は発言をするようになったのである。六十二年十月二十六日、沖縄国体で地元青年が日の丸を引きずり下ろし、ライターで火をつけた事件は全国民に衝撃を与えた。
戦前、沖縄文学の祖といわれた伊波普猷(いは・ふゆう)氏は、その著「古琉球」において、沖縄人の最大の欠点は恩を忘れやすいことだとして、事大主義的な性格を痛烈に批判している。
先日、沖縄復帰のさいの県知事、屋良朝苗氏が逝去した。私は屋良氏の功績を否定しないが、ひとつだけ不満がある。
二十八年当時、沖縄教職員会長であった屋良氏は「沖縄戦災校舎復興期成会会長」に就任し、全国を回って資金を募った。当初、目標六千万円、期間三年と設定していたが、わずか半年で六千五百万円が集まった。
実はこの裏には高松宮殿下の尽力があったのである。屋良氏は一部の関係者だけにこの事実を語っていたが、生涯公言することはなかった。余談になるが、殿下は沖縄のハンセン病施設「愛楽園」への支援にも尽力され、財界に呼びかけて物心両面に援助されていた。
四十八年十一月、殿下は長年のご希望かなって沖縄を訪問されたが、那覇空港には赤旗が立ち並び、「戦犯皇族帰れ!」のシュプレヒコールがこだました。
こうした社会風潮は、確実に県民のモラルを低下させていった。
沖縄県警の統計によると、平成八年度の凶悪犯の発生率は、沖縄が全国一だ。人口一万人当たりの犯罪率が〇・八九%で、全国平均の〇・五六%の一・六倍。とかく米軍人による犯罪に対しては、いっせいに糾弾する県民だが、この統計のほとんどは県民による犯罪だ。また、少年非行の保護処分率も三五・五%で全国平均の一一・三%の三倍以上、少年院に送る率も全国平均の五倍に近い。
戦前は徴兵や出稼ぎなどで沖縄県民は本土社会との交流があったが、今は高率補助に甘え、失業率が七・二%(八年九月、同時期の本土は三・三%)になっても県外へ出て行こうとしない。その結果、過去五年間の人口増加率は四・一%と全国平均一・六%の二・五倍にも達している。
最近、沖縄出身の社会党衆院議員が「沖縄独立のさいの法的処置について」国会で発言した。信義に欠けるとしかいいようがない沖縄県がたとえ独立したとしても、世界のどの国からも対等な扱いはされないだろう。県民の猛省を促したいものである。