またしても「辻の遊郭」に消える「補助金」か、沖縄 「諸君!」(1998・平成10年8月号)
杜撰な行政を基地問題で糊塗し、補助金に甘えてきた報い
沖縄はこの冬、破産する
平成七年九月、米海兵隊員による沖縄小学女児暴行事件が発生して以来、日本中が沖縄・反基地勢力に振りまわされてきた。ところが平成不況が深刻化すると、沖縄問題はマスコミの俎上から消え、鎮静化したかのように見える。
しかし、問題はこれからである。今度は県経済の破綻を震源とした混乱が、再び国政を揺るがすかもしれないのだ。
沖縄経済は、早ければこの冬にも金融クライシスが襲うと思われるほど深刻な状況にある。いま沖縄県民の預貯金残高は約四兆千八百八十八億円(全都道府県中最下位)であるのに、借入合計は約四兆四千六百二十四億円(同二十八位)とオーバーローンになっている。このような現象は、東京、大阪と沖縄だけである。とりわけ多重債務による調停事件が激増し、すでに人口一万人当り六十五件と、全国一を記録している。
加えてバブル経済時代に約一兆五千億円(平成三年当時)もあった本土金融機関からの融資が、バブル崩壊で急速に回収され、現在、融資残高は約四千二百三十五億円まで縮小している。
最も懸念されるのは、最近の金融危機の影響で、さらなる融資の引きあげが起きることだ。とくに懸念されるのが長信銀三行の融資残高合計の一千四百十一億円(日本長期信用銀行が三百六十九億円、日本興行銀行が三百七十八億円、日本債券信用銀行が六百六十四億円)と信託銀行の融資残高合計の五百六十三億円である。
実際、昨年の北海道拓殖銀行の経営破綻、そしてこの六月の長銀の救済合併の発表で、これらの融資は徐々に引きあげられはじめ、県経済は停滞し、県内失業率は八・二%と戦後最悪の数字を記録している。
すでに地元銀行の預貸率は上昇しており、いま以上の本土金融機関の合併、閉鎖が起きれば、すでに融資の肩代わりが限界にきている地元銀行では対応できず、県内主要企業の倒産にはじまる金融秩序の崩壊で、沖縄経済は破綻するであろう。
>これに対して県に何ができるのかといえば、県自身が無軌道に乱発してきた県債の償還が困難になり、かえって地元金融機関に金利の大幅減免を要求している体たらくであるから何をかいわんやである。まさに沖縄は破産前夜の様相を呈しているのだ。
山一証券と同じ道
沖縄はどうしてこんなことになってしまったのか。戦後、沖縄は基地問題を巧みに利用してきた。一連の反基地問題を巧みに利用してきた。一連の反基地運動で主張されてきた「米軍基地の存在が沖縄の経済発展を阻害してきた」というドグマをかざし、それを国庫補助で埋め合わせるのは、国家の当然の義務であると主張してきた。
これは事実にまったく反する。今日の沖縄経済の困窮はひとえに「自立心」に欠ける県民性の所産であり、政府はそれを助長してきたにすぎない。
沖縄は本土復帰後の二十五年間、国民の贖罪意識に甘え、基地イコール悪というイメージに便乗し、県行政の怠慢をすべて基地問題で糊塗してきた。それに対して政府も沖縄の構造改革にふれることなく、沖縄振興の大義名分に補助金の増額という手法で今日まで沖縄問題への真剣な対応を回避してきたのだ。しかし、いまこれが限界にきている。
沖縄経済は破綻した前途がある。にもかかわらずいま再び沖縄が経済危機に直面している姿は、山一證券の倒産を彷彿させる。山一は昭和四十年の証券不況で経営が破綻し、日銀特融で救済された。しかし、その原因も何ら反省することなく、大蔵の保護行政に甘え続けた。そしてついには倒産に至ったのである。
平成七年以降、約二年にわたった沖縄の反基地闘争も、結局は政府の沖縄振興策を引き出すと、一応は鎮静化した。
しかし、これは問題の先送りにすぎない。平成八年、政府は、まず同年八年に、梶山静六官房長官の私的諮問機関として設立された「沖縄米軍基地懇談会」(座長)島田晴雄慶応大教授)が、わずか三ヶ月で答申を出し、「米軍基地があるために県民に閉塞間がのしかかっている」と、反基地勢力のドグマを代弁したうえ、「基地所在市町村に対し数年以内に数百億円から一千億円規模の事業を予定する」と発表した。
また平成九年度予算から交付金に基地交付金が新設され、政府主導の公共事業において当該市町村の負担部分がなくなっている。
さらに八年九月に橋本龍太郎総理自身が沖縄を訪れ、「沖縄県民の負担に反省とお詫びをする」と演説し、さらなる沖縄振興策の実施を名言、大田昌秀沖縄県知事と十七回も会談して、反基地勢力に屈伏したともとれる対応に終始した。同年九月には沖縄振興策のためとして特別調整費五十億円をも提示している。
そして政府は今年三月、沖縄県の要求する国際都市構想を受け入れ、特別自由貿易地域制度の創設を主軸とした改正沖縄振興開発特別措置法を成立された。企業誘致のため、沖縄自由貿易地域に進出する企業に対し、現行法人税を約三五%に減免するといった法律で、まさに一国二制度の実現である。
繰り返すが、沖縄の経済的な苦境は基地があるためではない。むしろ乱脈な県行政のため、いつ破綻してもおかしくないところを、基地からの収入のおかげで凌いできたというのが実情である。それゆえ、地元財界は従来、無軌道な反基地勢力を牽制してきた。
ところが一連の政府の安易な妥協の結果、その財界の一部はこの特別処置に乗じて一儲けをしようと反基地勢力と連帯しはじめたのだ。
彼らは今や沖縄自由貿易地域を県下全域に拡大するよう要望している。そして全県自由貿易促進期成会なるものが、県民に、「この制度が全県的に適用されれば消費税を含む個人課税でさえ不要になる」と吹聴することしきりである。
山一でいうなら政府、大蔵省が加担した「飛ばし」によって問題を先送りし、社内改革の芽が摘まれてしまったのと同じである。しかし政府、大蔵省はついには山一を支えきれず、山一は倒産した。日本中は平成不況に喘ぐいま、沖縄の前途も同じであろう。
民間企業である山一でさえ、倒産するときには「社内調査報告書」で政府、大蔵のやり方を痛烈に批判した。ましてや沖縄の場合は、再び経済クライシスを基地問題に転嫁する恐れがあるのだ。
「辻の遊廓」に消えた補助金
沖縄は復帰後の二十五年間で、約五兆円もの補助金を振興開発費の名目で国から受け取ってきた。にもかかわらず沖縄経済の構造は一向に改善されていない。国民の血税はどこへ消えたのであろうか。
大正バブルの崩壊で沖縄経済が破綻した際も、結局、時の政府は沖縄への巨額の補助金交付を決定した。そのことを大阪毎日新聞の記者、下田将美氏は、昭和二年に、『琉球よどこへ行く』と題して、紙面で痛烈に批判している。
「過去の苦痛を振るい落とすべき救いの手は下りつつある。されど心せよ。この時に汝が精神的に目覚めずば、救いの手は却って汝を救うべからざる地獄に陥し入れるであろう」
「島国根性のあらゆる欠点は琉球において見出される。排外の狭い考えからいかに琉球の人々はひがんだ想いを内地に寄せているか。しかも口を開けば救済々々と叫び、一を得て二を望み、二を得て三を望む。自ら額に汗して勤めることを嫌い、ただ外部よりの救いの手を得ようとする。かような考えの改まらぬ限り恐らく政府の救済も水の泡となろう。五百万円の莫大な金(筆者註:産業助成費等)は、言いかえれば国民の血の汗との結晶である。(中略)二百五十万円の(沖縄)興業銀行への融資が結局は辻の遊廓を一時賑わすにすぎぬのではないかと憂うるのは一人私ばかりではないだろう......」(一部現代仮名遣いへ変更)
いま「辻の遊廓」はない。しかし県行政そのものが「辻の遊廓」の役割を果たしているのだから、より深刻である。
日本国民の税金がどういう形で浪費されているのか、いくつかの事例をあげてみよう。
まず最近、県が着工した建築構造物(いわゆる「箱物」)について見てみる。
まず平成十一年完成予定の「平和資料館」である。この不況下に総工費八十億円をかけた壮大な計画で、展示面積は現資料館の約五倍に拡大されている。
また平成八年より使用されている「南部(地区)合同庁舎」は中古ビルを二十八億円で購入したものだが、これが不当に高い価格で購入しているうえ、県庁よりわずか九百五十メートルの位置にあり、「公金の不当使用」として、県民から告訴されている。
総工費四百十二億円の「沖縄公文書館」は平成八年に完成したが、現在にいたるまでの一日当りの平均入館者はわずか六名である。今年四月に完成した県民地下駐車場は総工費四十九億円、二百台の収容能力を誇るものの、利用率は低迷を続け、県民から批判されている。
また県営住宅についても、新築物件千五百戸が空室のまま放置されている。この数字は過去三年間に新築した戸数に匹敵している。つまりこの三年間は、必要もない県営住宅を作り続けたことになる。これらは管理費だけで年間二十三億円もかかっているのだ。
極めつきが今年五月に完成した知事公舎である。約7億円の巨費を投じて作られたこの公舎は、面積で全国知事公舎平均の一・五倍という広さで、三百五十万円もするサウナが備えつけられている。
このほかにも「女性会館」「工業試験センター」等、不要不急の「箱物」が林立しているのが沖縄の風景なのである。
それだけではない。沖縄県の外郭団体は現在、六十一を数え、大都市圏を含めた全国で六位という多さである。これは大田県政になって十七団体も増えた結果である。なかでも「県文化振興会」、「女性団体」、「亜熱帯総合研究所」、「アクアパーク」、「マリンジェット観光」については、その運用目的にさえ県民から疑問が呈されている。
また沖縄県財政の歳出を見ると、その義務的経費の大きさに驚く。当初予算の約半分がそれによって占められている。なかでも人件費が大きく、単年度で約二千四百億円(歳出の約三三%)が当てられている。
どうしてそういうことになるかといえば、一つに県職員の給与の高さがあげられる。沖縄県の一般行政職の平均給与は三十五万四千九百円で、国家公務員平均の三十万九千三百九十二円を大きく上回っている。大田知事はことあるごとに県民所得が全国平均の七割しかないことを口にするが、県庁職員にかぎっては、それは逆なのである。
また職員構成にも問題がある。県庁内部にいる部長級の職員の数は現在二十六人で、これは福岡県並の数(二十一人)であり、県民一万人あたりの役付き職員に換算すると沖縄が二十四・六人に対し、福岡が九・四人と圧倒的に多くなっている。県庁から外部団体に出向して部長級の待遇を受けている者まで含めるとこれは四十六人に膨れ上がり、財政状況が類似している島根県の三倍もの数字になる。
「魚は頭から腐る」というが、これらの浪費の元凶が大田知事であるのは明らかだ。
知事は今年五月までに合計七回も渡米しているが、それにかかった総経費は二億二千万円以上にのぼっていた。
基地所在市町村もこれにならい、国庫補助に甘えるところが目立ってきた。とくに読谷村は九年三月、総工費二十一億円も費やして地上三階、地下一階、総面積約八千五百平方メートルの新庁舎を米軍基地内の国有地に新築した。落成式で山内徳信村長(現在は沖縄県出納長)は「自治と平和と民主主義の殿堂」と自画自賛したものの、この建築費には防衛庁補助がなされている。また読谷村は歳入の一二%を基地関連収入に頼っているのだ。
ここで沖縄の最初の経済破綻を振り返ってみたい。昭和金融恐慌の三年前に当る大正十三年十二月、沖縄では当時のバブル経済が崩壊し、沖縄にあった地元銀行三行すべてが倒産した。同時にそれまで膨張を続けていた市町村財政も破綻し、沖縄はまさに自己破産状態に陥ったのである。
バブルの起こりは、大正八年六月頃から、当時国内二位の商社であった鈴木商店をはじめとする大手が沖縄黒糖への投機をはじめたことにあった。加えて日頃、沖縄に関心を寄せていた政友会の原敬総理政権下とあって、那覇港の拡張工事など大型の公共工事が実施され、バブルを煽った。
当時、ジャーナリストの太田朝敷氏はこう表現している。
「この二年間に都鄙(とひ)ともにわけもなく景気に陶酔し、馬の糞でも犬の糞でも買っておけば必ず儲かるといわれた位で、土地であれ、家畜であれ盛んに思惑が行われ、一時は各所に小成金がうようよ出来た(後略)」(『太田朝敷選集上巻』)。
大正十三年六月、地元銀行の経営内容を危惧した県知事が大蔵省に特別検査を依頼したところ、三行融資総額七百三十二万八千円のうち、実に回収不能額合計が二百七十万円、不良貸し合計が二百二十万円という実態が判明した。しかもその原因は縁故(門中)への情実融資と政党への癒着融資であり、とくに旧沖縄産業銀行は政友会、旧沖縄銀行は憲政会の機関銀行の様相を呈していた。
植民地を望んだ沖縄
バブルが崩壊し、とりつけ騒ぎの中で地元三行は相次いで営業を停止、県経済は混乱し、預金者にはショックの余り自殺する者もでた。農民は食料を買う金さえなく、自生するソテツの実を食べて飢えを凌ぐ状態であった。中にはそれに含まれている猛毒サイカシンを誤飲し一家が全滅するという悲劇も起こったのである。
そこで大正十四年より政府は沖縄救済策を実施し、閣内に琉球経済振興委員会が設置され、国家予算に沖縄産業助成費、工業助成費、産業振興資金などの名目で合計七百五十二万九千が計上された。さらに昭和二年には倒産した三行を合併して設立された沖縄興業銀行の資本金に公的資金二百五十万円が充当されている。(同行は昭和二十年閉鎖)。
そして大正十五年、沖縄県選出の国会議員四名が帝国議会に沖縄経済救済に関する建議案を連名で選出している。その一筋を紹介する。
「財政救済の点については、多少植民地行政の長所を加味し、この際とくに担当の税源を沖縄県に委譲せられ積極的にその救済ならびに助長開発を計るのが最も策の得たるものと信じ(略)」
さらに県内世論のひとつと前置きして、「或人は、植民地の如く特別会計に改めて貰いたいと論じている」
という文言さえ付記している(傍線部筆者)。
大正から昭和にかけての地方の困窮は沖縄だけでは決してなかった。とくに東北、北海道地方は昭和六年に凶作に見舞われ、飢餓人口は五十万人を超え、さらに翌年には同地方を水害が襲い、餓死者が続出しているのだ。しかしどの地域からも沖縄のような特別措置を求める陳情はなかったのである。
しかし政府は沖縄の生産基盤を整備するため、昭和七年、帝国議会において沖縄振興十五ヵ年計画を法制化した。しかしその成果を見ぬまま、わが国は大東亜戦争に突入し、昭和二十年、沖縄は地上戦と相俟って、戦前の社会システムが消滅した。
米国のガバナンスに学べ
昭和二十年四一日、沖縄に上陸した米軍は北緯三十度以南の南西諸島に対し軍政の施行を宣言する。そして二十四年以降は、東西冷戦の激化で沖縄を中ソを睨む最前線基地として使用することを決定した。
こうして米軍統治の時代がはじまるが、元総理の芦田均氏が、「米軍の統治のおかげで原住民の生活は向上した。日本の統治ではこうはいかなかっただろう」(昭和三一年六月二十八日付「東京新聞」)と発言しているように、沖縄経済は米軍統治によってはじめて好転していく。その根底には金融システムの安定を統治の最重要課題とした米軍のガバナンスが奏功していたのだ。
ここで特筆したいのは、沖縄米軍は当初、大量の援助を沖縄に提供したが、それに止まらず、沖縄経済の本質を変革したことである。
昭和三十年時代沖縄経済は、米国の援助に加え、日本政府の援助が拡大したこともあって順調に推移し、年平均一六%前後の高成長率を維持していた。
ところが、米軍政府は沖縄金融機関の乱脈経営とその監督義務を遂行しない琉球政府および司法機関の怠慢に県民性を見抜いた。癒着による不正融資が横行しており、放任すればいずれは大正末期のように沖縄社会を瓦解させる危険があると判断した。
琉球政府主席は、昭和三十八年九月から十一月にかけて、米軍政府から強い抗議を受けた結果として、各金融機関に「政治献金の全面禁止」「(金融機関職員の)融資の際の金品の受領禁止」などの綱紀粛正を促す通達をようやく出している。
一方で米軍政府は徹底した不正摘発を行った。
米軍政府は昭和三十四年、米本国から金融行政の専門家を招き、域内の金融機関を調査させたところ、琉球銀行を除く各金融機関の杜撰な経営内容が発覚した。同政府は直ちに「厳重警告」発するとともに、三十六年には琉球政府内に金融検査部(四十一年に庁に昇格)を設置させている。
ところが同部の人事権が琉球政府主席の掌中にあるため、金融監督権や逮捕捜査権を与えてもなかなか発動されなかった。
そこで昭和三十七年、沖縄統治権者高等弁務官キャラウェー陸軍中将が乗り出し、その結果、銀行の頭取を含む三行の役員を背任行為で逮捕、公的機関を含む沖縄全金融機関役員六十五名を退任させた。
このショック療法が功を奏し、翌三十八年、同部が銀行整備五ヵ年計画を発表したところ、各金融機関は従来の安易な姿勢を改め、ただちに従った。その結果、当時、沖縄にあった地銀二行、相銀七行、保険会社四社のうち三十九年四月までに相銀、保険会社それぞれ二社に統合されたのである。
高等弁務官による行政指導はこれだけにとどまらず、自己利権に固執する沖縄財界への啓蒙活動を行い、米政府が筆頭株主である琉球銀行に対しても「昭和初期の日本の銀行形態を未だ続けていると」批判し、三十八年の株主総会で総裁以下四名の重役を解任、役員賞与の高配当を指摘し、欧米水準まで引き下げさせている。
さらに地元金融界の猛反対を押してアメリカン・エクスプレス、バンク・オブ・アメリカなど外銀の沖縄支店開設を認可し、地元金融界の閉鎖性を打破した。この結果、金融界は活性化し、昭和四十七年の本土復帰際にはこの沖縄金融機関の安定こそが県民の不安と混乱を防止したのである。
戦勝国による強権発動といえばそれまでであるが、「甘え」と「馴れ合い」の害毒に冒された沖縄にとって、米軍政府の施策はまことに適したものだったのである。
復帰後の失政
ところが復帰がなされると、米軍政府が育んだ気風は一気に失われ、沖縄経済の改革は元の木阿弥になってしまう。
復帰の二年前の昭和四十五年三月、総務庁長官山中貞則氏は、衆議院予算委員会で「沖縄の金融機関の整理統合」について発言し、沖縄財界を慌てさせている。沖縄財界は、「復帰にともなって県内企業は本土との競争にさらされる。油断すれば戦前のように沖縄経済は県外出身者に席巻されるのではないか」と危惧したのだ。
またこの年、米軍政府は琉球銀行株を民間に放出することとなり、バンク・オブ・アメリカなどの外銀がこの取得を希望していた。ところが大蔵省は米国大使館を通じて株購入の動きを阻止した。さらに日本政府は復帰の際、本土金融機関に通達を出して沖縄への出店を禁止している。
そして沖縄開発庁を設立し、沖縄県の年度予算は同庁が一括計上することとなった。そのうえ県下企業を保護するとして法人税の軽減など税制面での優遇策を目的とした復帰にともなう特別措置法および沖縄振興開発法などを制定した。これらは五年の時限立法として制定されたものの、地元財界の懇願ですでに五回も延長され現在に至っている。
その結果、沖縄の構造改革は放置された。県内企業はいまだ第三次産業に偏重しており、ほとんどが雇用者三名以下の零細企業である。平均自己資金比率も本土平均の半分以下にすぎず、過半数が赤字経営である。県内製造業の売上高に占める研究開発費も本土平均の十分の一以下(0・三%)と極端に低い。
国がいくら公共工事を実施しても、地元企業は技術力の面から下請けにならざるを得ず、県内への資金の歩留りは極めて悪い。
また琉球王国に回帰するかのごとく、貧富の差も拡大し、県民所得は全国平均の七割と言われながらも一千万円以上の高額所得者の数では全国十八位という現象も起きている。
県内で唯一ベンチャービジネスに成功した韓国出身の全泰源氏は「沖縄では新しい企業が出てきても経済界は公共事業や既得権益で食べており、出る杭はすぐに打たれて潰される」と発言している(「琉球新報」平成八年十一月十四日付)。
しかしこのような状況にあっても県民に危機意識がなかなか起きないのは、沖縄が現状情報社会に取り残されているからだ。
沖縄は『沖縄タイムス』『琉球新報』の二紙で県内シェアの九三%を占めるという寡占状態である。しまも両紙ともに基地問題と反国家的テーゼに紙面のほとんどを割いているのだ。
三つの抜本的な改革
いま沖縄はまさに政治バブルの頂点にある。しかし経済破綻に端を発した政治バブルの終焉は沖縄社会に大変な混乱をもたらし、また、わが国のガバナンスは世界に問われることにもなる。政府はこれに対処するためにも、補助金ではなく、とにもかくにも沖縄の抜本的な構造改革に着手すべきである。
そのためには、まず沖縄金融界の再編強化により沖縄社会の最低限のフレームを確立した後、「一、沖縄マスコミによる市場寡占状態の打破」「二、沖縄開発庁および沖縄特例の廃止」「三、琉球大学以下の県内公的教育機関の教員レベルアップ」などを早急に実施すべきだ。
とくに沖縄には米軍特別軍属として約八百名の米国人が基地内大学や小中高で米軍人子弟相手に教鞭を取っている。ここで特例として県民子弟を選抜して小学校から基地内の教育機関へ進学させてはどうだろうか。
教育は一朝一夕になるものではない。人材教育は小学校から始めなくてはならない。現在、沖縄の指導的地位にある人たちは、かつて米軍統治時代に米国留学をはじめ本土の一流大学へ特例で進学するという最高の恩恵を受けてきた。しかし後進の育成を怠った結果、県下の教育レベルは依然低迷し、大学入試センター試験でも、連続して全国最下位、高校中退率は最高という体たらくである。
しかし経済破綻は教育の成果をもってはくれない。だからこそ、政府はまず米軍統治に倣い、強い意思でこれらの改革を推進すべきなのである。それを通じて沖縄にも「自立心」が育ってくることを私は期待したい。