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あらすじ

 平成十五年十月十九日、日本の土を初めて踏んだ一人の元英国海軍士官がいた。

元海軍中尉サミュエル・フォール卿。

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍。その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓した際、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。


 大東亜戦争の開戦劈頭、一九四二年二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊が激。日本艦隊は三月一日までに、十五隻中一一隻を撃沈し勝利した。

 三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は二日に渡って漂流を続け、生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していたのが日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」である。

駆逐艦「雷」

 当時、英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
 しかし、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と健闘を称え全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。


 フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。しかし、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知ると、自身の齢もすでに八十四歳を数えることもあり、意を決し「人生の締めくくり」として来日したのである。


 フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」に卿を招いた。
 フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて戦時中を振り返り、「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語る。

 フォール卿の来日の目的は、かなうことなら艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げることであった。ところが、来日してみたもののその願いはかなえられず、フォール卿は恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国する。
  一九九八年四月二九日英タイムズ紙に、フォール卿が投稿し掲載された一文がある。それは翌月に天皇の英国訪問が予定されている時期であり、、それに対してかつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちが中心となり反対運動が起きていた。捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

 しかし、「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったこのフォール卿の投稿は、それ以後の日本批判の言説の数々を、全く精彩を欠くものとすることになった。


 米海軍機関紙「プロシーデングス」昭和六二年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chiv-alry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を七ページにわたって掲載し、米海軍軍人をも驚嘆させている。
 さらに 平成四年、スラバヤ沖海戦五〇周年記念式典がジャカルタで行われ、その式典にてフォール卿は記念講演を行った。ここでも工藤中佐の功績を称え、「日本武士道の実践」と強調した。会場からは、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという。


■工藤艦長の生い立ち

 工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。

 工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。
  工藤はこの朝礼の直後、担任の先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。 この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。

 工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。そして、工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。

 明治に入り米沢興譲館中学は山形県立米沢中学校となり、米沢士族の間ではステイタス・シンボル的な学校であった。工藤は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを徒歩で通学した。当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

 日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。 その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。


■海軍の教育方針

 工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。

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 海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。

 鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。

 海軍兵学校校長に着任した鈴木は、大正八年十二月二日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

 鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。

 昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。


■工藤俊作「雷」艦長に着任

工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月一日として着任する。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

 また、工藤は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

 工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。 見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。 このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。

二ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。


■駆逐艦「雷」

 「特型駆逐艦」または「吹雪型」と称される大正十二年度の建艦計画で設計され、大正十五年から昭和八年まで二四隻が就航した、日本海軍建艦史の中で最多のシリーズである。
「雷」は特型・型、二三番艦として造られた。
基本排水量一六八〇トン 全長・全幅一一八・五メートル 一〇・三六メートル
速力三八ノット 機関艦本式タービン二基二軸
主要兵装 一二センチ砲六門 一三ミリ機銃二挺 六一センチ魚雷発射管九門、魚雷一八本
(「日本海軍総覧」新人物往来社 一九九四年刊より)


日本海軍の武士道精神

昭和一六年一二月八日に大東亜戦争開戦。その大東亜戦争開戦の二日後、昭和一六年一二月一〇日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
  こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。


■敵兵を救助せよ!

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  英国駆逐艦「エンカウンター」は日本艦隊の追撃を受け、撃沈された。この時、二〇歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

「艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。」「間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。」

 この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。三月一日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。船長であった工藤の兵学校時代の教官であった清水巌大佐(海兵三九期)が船と運命を共にしている。戦闘詳報には二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ海で「敵潜水艦合計七隻撃沈」の報告もなされている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。「エンカウンター」の乗組員たちは、約二一時間も漂流し、「エクゼター」の場合と異なり、沈没艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなる。

「救命浮舟に五、六人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から一五〇海里も離れ、食糧も飲料水もない有り様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な情況に置かれていました。」

「私は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信しておりました。ところが一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていたのです」

「一九四二年三月二日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行しておりました」

 このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者四〇〇以上」と次々に報告がはいる。工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午後一〇時頃「救助!」と命じた。

「午前一〇時(正確には午前一〇時一〇分頃とおもわれる)、突然二〇〇ヤード(約180メートル)のところに日本の駆逐艦が現れました。当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」

「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発した。敵潜水艦に攻撃されるおそれのある中での救助である。それも、その救助する対象は敵将兵である。

                   

■工藤艦長 決断す!

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ここで工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかける。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

 工藤は先任将校(浅野市郎大尉海兵六三期当時二九歳)に救助全般指揮をとらせ、航海長(谷川清澄中尉二五歳)に後甲板を、砲術長(田上俊三中尉二四歳)に中甲板における救助の指揮をとらせた。

 佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想する。

「筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。 その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました」

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました」

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、独断で海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

 艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断する。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

 この期に及んで敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜大自然と戦っている。この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。


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■今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである

 「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」

「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」

「艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。友情あふれる歓迎でした。私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです」

フォール卿は当時の様子をそう語った。

 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。

「すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。」
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

「『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました」

 この日「雷」は422名を救助した。ちなみに、駆逐艦「雷」の乗組員は約150名である。

 この頃、我国にとってはまさに「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時であり、また艦内の真水をつくるために造水装置も作動させるにも燃料を消費する。そのため、直接燃料を制御する機関長以下の機関科員は、絶えず燃料節約に努力し、また乗組員は真水を節約するため、洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていた。それを、工藤艦長は、敵兵救助のために艦の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、重油で汚染された敵兵を洗浄するため、アルコールやガソリンを使い、さらに真水まで使用している。

 海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲った。一時間も経過すると、身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができた。そこで工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。


■この光景は初めてだ・・・

写真09

 「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。

 「雷」の上甲板面積は約一二二二平方メートル、この約六〇%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、四八八平方メートル前後である。そこに、約三九〇人(約二〇人から三〇人は士官で、艦内に収容)の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。また、工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。

 この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。高橋中将は「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。

 救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

 「エグゼタ?」の副長以下重傷者は担架で移乗した。とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼタ?」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。


■捕虜としての生活

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その後のフォール卿の捕虜としての生活はどうなったのであろうか。

「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。

 捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め兵卒もまじって収容されていました。

 ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、それは失敗に終わったのです。これ以降、自分は英国海軍の上級士官から二度とこういう行為はするなと言われました。

 日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、インドネシア語を学んだのです。このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。

 一九四二年の暮れ、ある日本人のジャーナリストが捕虜収容所を訪問し、私は取材を受けました。彼は長年の滞米経験があり、われわれに同情的でした。彼は私にインタビューし、その内容を東京放送で必ず放送すると約束してくれました。その時、私が語ったのは次のようなことでした。

 一、両親あて、私は現在日本の捕虜になっている。日本の処遇はいい。現在語学を懸命に学んでいる。

 二、恋人メレーデ(現婦人)へ、私の愛を君に送る。

 戦後になってわかったことですが、この放送はロンドンのアマチュア無線家によって受信され、両親に電話で知らされていました。 両親はすぐにこれが偽物でない事を確信しました。なぜならメレーデは、私のフィアンセの愛称だったからです。これは、当時スウェーデンにいたメレーデの兄にも伝えられました。

 その後、捕虜は分けられて、セレベスの東岸にあるパマラに移され、そこで終戦を迎え、一九四五年一〇月二九日にリバプールに帰還したのです」

 先に書いたようにフォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成八年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。


■価値観の転換の中で・・・

 平成一五年一〇月、フォール卿は日本の土を踏んだ。八四歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、「敵兵を救助せよ」の著者・恵隆之介氏がわずか三ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作氏は終戦後、高畠にあったかよ夫人の実家にいて、苗木の挿し木などをして収入を得ていた。敗戦により陸海軍人に対する視点が一八〇度変わり、かっての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。しかし、工藤俊作の出身地である屋代村村民は、戦前戦後の価値観の転換はなかった。

 村民は、工藤が駆逐艦艦長時代、碇泊中に郷党の兵が表敬のため舷門を訪ねると、階級にこだわることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを決して忘れなかった。とくに元海軍下士官の二階堂敬三氏(平成一二年、八一歳で死去)は、戦後、何度も感激をもって次の話を村民にしていた。

「水兵時代に『雷』を訪問し、『工藤艦長に表敬したい』と舷門にいる下士官に申告したことがあった。下士官は即座に『兵の分際で、艦長を表敬とは何事か』と怒鳴った。そこに、折良く工藤艦長が通りかかり、『二階堂君ではないか』と、艦長室に案内し、歓待してくれた」

工藤は高畠から自転車で、屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて頭を垂れていた。

 昭和三〇年、工藤も敗戦のショックからようやく立ち直り、埼玉県川口市朝日に転居する。かよ夫人の姪が、この地で医院を開業することになり、工藤は事務を、夫人は入院患者の賄い婦としての生活が始まったのである。

 この頃になると、同期や、旧部下が、工藤の所在を探し当てて訪問するようになる。戦後まっ先に工藤を訪ねてきたのが、艦長伝令をしていた佐々木確治氏であった。その次が第一砲塔砲手の橋本衛氏であった。二人とも玄関で、「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならずただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱するだけであった。

 近所の人々もこの寡黙で長身の男が、かつて駆逐艦の艦長であることに気づく。少年たちは朝夕、挨拶し、工藤を畏敬するようになる。


■晩年の工藤艦長

 工藤は海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わった。さらに戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであった。

 昭和五二年暮れ、病魔に冒される。胃ガンであった。

 昭和五四年一月一二日、七八歳の生涯を静かに閉じた。いよいよ最後という時、クラスの大井薫氏や、正木生虎氏が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと正木さんですよ」と耳元で囁いた。

「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ」

と言いつつ、静かに目を閉じたという。

工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。我国海軍のサイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。

 現在、工藤中佐夫妻は川口市朝日にある薬林寺境内に眠っている

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